豊橋交響楽団の歴史

豊橋交響楽団の成り立ちと歴史をご紹介します。
昭和40年6月、豊橋交響楽団の前身である豊橋リードフィルハーモニー交響楽団(略称:リードフィル)が発足し、第1回定期演奏会が豊橋市公会堂で開催された。その母体となったのは、昭和37年NHK全国合奏コンクールで全国一になった豊橋市立羽田中学校のリードバンド部である。あちらこちらから楽器を借りて始め、県大会、東海北陸大会を突破し、あれよあれよという間に日本一になったのは創部一年目の快挙であった。

顧問の森下元康氏と当時の部員たちは、中学の部活動だけで終わりたくないと一計を案じ、OBを中心に市民オーケストラである今日の豊橋交響楽団の礎を築いた。当時は本格的なオーケストラの編成ではなく、ヴァイオリンとヴィオラのパートはアコーディオンを使用していた。オーケストラの中心であるはずの場所に弦楽器がなく、アコーディオンを使用しているオーケストラは世にもまれな存在であった。そこでついた名前は「豊橋リードフィルハーモニー交響楽団」、司会者泣かせの長い名前である。

そんなオーケストラが、昭和46年、東京虎ノ門ホールで行ったコンサートが大きな反響を呼んだ。本物のオーケストラではないリードフィルの音楽監督森下元康氏が一石を投じ、全国のオーケストラの中心になって、翌47年日本アマチュアオーケストラ連盟を設立した。不思議なことに吹奏楽や合唱にはあった全国規模の連盟が、アマチュアオーケストラにはそれまで存在しなかった。全国規模のコンクールで上手下手を競うのではなく、年に一度、全国から集まったアマオケメンバーで演奏会を開こうということになり“全国アマチュアオーケストラフェスティバル”の第1回大会が、昭和48年に豊橋市民文化会館で開催された。

昭和50年現在の豊橋交響楽団に改組する。このときも森下氏はヴァイオリンとヴィオラを羽田中オーケストラ部に3年がかりで導入し、豊響のコンサートマスター松本 茂氏とともに市民オーケストラの改編に結びつけていく。「ブラームスの交響曲第1番」を目標に、愛知県豊橋勤労福祉会館の落成記念公演としてデヴューした。

リードフィルとともに青春を過ごしたアコーディオン奏者たちは最後の公演になったシベリウスの交響曲第2番を涙で演奏した。山間部への巡回コンサートでもしばしば演奏された交響詩「モルダウ」に例えれば、水源の一滴は羽田中リードバンド部。それが豊橋リードフィルハーモニー交響楽団となり改編という急流を越え、豊橋交響楽団となっていった。

以後、(社)日本アマチュアオーケストラ連盟(2012年現在139団体が加盟)の本部オーケストラとして、また豊橋に本部が置かれているNPO法人世界アマチュアオーケストラ連盟にも関わり、日本だけでなく世界中のアマチュアオーケストラとの交流の拠点として注目を集めている。
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